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東京高等裁判所 昭和58年(く)118号 決定

主文

本件抗告を棄却する。

理由

本件抗告の趣意は、少年の附添人蒲田孝代・同小関傳六連名提出の抗告申立書に記載のとおりであるから、ここに引用する。

第一、事実誤認の論旨について、

論旨は要するに、少年は原決定「非行事実」2の現住建造物等放火未遂非行(以下本件放火という)の犯人でないのに、これを少年の非行と認めた原決定には事実の誤認がある、というものである。

そこで案ずるに、一件記録によると、原決定の少年が本件放火の犯人であるとの認定は優にこれを肯認でき、所論のいうような事実誤認はない。即ち、

一(一)  原決定が挙示するCの検察官に対する供述調書(二通)及び司法警察員に対する供述調書(三通)、Dの検察官に対する供述調書及び司法警察員に対する供述調書(三通)によれば、右両人は千葉県立流山中央高等学校二年の生徒であつたが、昭和五六年一二月一日五時間目の授業が終つて、一件記録により認められる普通科教室棟一階の女子便所に行くため、玄関のある東側方向から廊下を歩いてその前までくると、西端の軽音楽部室前廊下に置かれているゴミ入れ用のダンボール箱に向つて二人の男子生徒が中腰の様な格好でかがみこんでいたので、不審に思い、立ち止つて注視していたところ、手前(東側)にいた者の手のひらの中からパツと何か火がついたように光つた途端にダンボール箱が燃え上つた、それと同時に二人の男子生徒はその場から急いで女子便所西隣の男子便所西側の階段のところまで走つてきて、その階段をかけあがつて逃げた、奥の方(西側)にいた者は、手前の者の陰になつて良くみえず、逃げる時には下を向いて前かがみの姿勢でいたので顔はわからなかつたが、手前の火を付けた者の顔は逃げる時にも見たが、三年生の教室の廊下などで見た覚えのある顔であるうえ、白地に赤線が二、三本引かれ、その赤線の間を緑か青の様な色で塗つている三年生の体育館履きのズツク靴をはいていたこと、そして石原先生に放火であることを知らせ、また生活指導担当の立川先生らに尋ねられて放火の現場における目撃した状況及びその犯人のうち一人は三年生の男子生徒である旨を話し、立川先生らから三年生の写真台帳を見せて貰つた結果三年E組のK(少年)の写真が目撃した火を付けた男子生徒の顔と一致し、更に取調中の少年を透視鏡でみせられたが火をつけた男子生徒に間違いなかつたというのである。

(二)  又乙の原審における昭和五七年七月一日の審判期日における証言、原審と同じ裁判所における同人についての昭和五八年二月二四日の審判期日における同人の供述、同人の検察官に対する昭和五六年一二月二三日付・同五七年一月三〇日付・同年二月五日付・同日付(謄本)各供述調書、同人の司法警察員に対する昭和五六年一二月二二日付・同月二三日付(謄本)各供述調書、Aの原審における昭和五七年六月二四日の審判期日における証言、同人の検察官に対する昭和五七年一月二一日付供述調書、同人の司法警察員に対する昭和五六年一二月二四日付各供述調書謄本(二通)、Bの原審における昭和五七年九月一六日の審判期日における証言、同人の検察官に対する昭和五七年二月三日付供述調書、同人の司法警察員に対する昭和五六年一二月二三日付供述調書謄本とGの司法警察員に対する昭和五六年一二月二五日付供述調書及び司法警察員福谷義明作成の昭和五六年一二月一二日付・同月三〇日付各実況見分調書を綜合すると、少年や乙は千葉県立流山中央高等学校の生徒などで組織され、同校で昭和五六年一〇月まで少年と同じ三年E組に在籍していた甲を総長とする東武連合と称するグループに属していたこと、少年や乙を含む東武連合に属する者らは、昭和五六年五月頃からの右流山中央高等学校の生徒に対する指導方法や同年一〇月の甲の退学措置・少年らに対する停学処分等に不満をいだき、同校々舎を損壊して学校内をさわがせようと企て、原決定「非行事実」1の暴力行為等処罰ニ関スル法律違反の非行を犯したこと、右非行後、乙は、同じく東武連合に属するHのアパートで同人やI・甲ら東武連合の者達と雑談していた際、更に学校内をさわがせるためには同校々舎に火を付けるのがよい、場所は人気の少ない軽音楽部屋前附近がいいというような話を交わしていたため、本件放火の当日である昭和五六年一二月一日の午前中かその前日頃の授業中に、同じ一年B組で隣席のAに軽音楽部室附近にボールペンで印をつけた略図を記載した紙片を渡し「火をつける」旨話したことがあつたこと、昭和五六年一二月一日の昼休みの終り頃、午後の五時間目の授業開始の予鈴が鳴つたので乙・Aは書道の授業を、B・Gは美術の授業を、それぞれ受けるため、一件記録により認められる特別教室棟(管理棟又は新館棟とも呼ばれている)四階のそれぞれの特別教室に赴くべく、一年生の教室がある普通科教室棟四階から三年生の教室がある同棟二階まで降り、そこから特別教室棟に通ずる渡り廊下にさしかかつた際、乙は同所で同じく東武連合に属している三年生のJと話をしていた少年に呼びとめられ、少年から「今日下に火を付けるからな、五時間目が終つてからな」等言われ、乙は前述の経緯から、少年が普通科教室棟一階の軽音楽部室前附近に放火するものと理解し、それを見たいという好奇心と見張りをする意図で、それに加担することを承諾し、少し先に行つていたA・Bに追いつき、同人らに「五時間目と六時間目の間に火を付けるから見張りをしてくれ」と依頼し、その承諾を得たこと、五時間目の授業終了後乙・A・Bはただちに特別教室棟四階から同棟二階まで降り、同棟から普通科教室棟に通ずる渡り廊下にかかる附近において、Aは乙から「ここで見張りをしてくれ」との指示を受けて同所附近でその階の廊下東端にある職員室方向の見張りをしていたこと(Bの原審における昭和五七年九月一六日の審判期日における証言によると、Aは購買部あたりで見張るように乙から指示されていた旨述べているが、この供述はBの昭和五七年二月三日付検察官に対する供述と対比し信用できない)、次いで右渡り廊下を経て普通科教室二階にいたり同棟一階に通ずる階段の踊り場附近に至つたところで、Bは乙から「ここで見張つていてくれ」といわれて、同所附近に残つたこと、乙は同階段の下附近で少年と出会い同棟一階廊下に出て右折し、同階西端の軽音楽部室前廊下に置かれたゴミ入れ用ダンボール箱前にいたつて、少年は東側、乙は少年の左手である西側の七〇糎乃至八〇糎位はなれた位置にたち、少年から「まわりを見ていてくれ」と言われたので、同廊下の東方を見たところ、廊下には誰もいなかつたので視線を移して少年の行動をのぞきこんでいたところ、少年は携行していた紙袋から清涼飲料水用の一リツトル瓶を取り出し、その中に入れていたガソリンをダンボール箱にふりかけ、上衣のポケツトから白い紙をまるめたものを出して、これにライターで火を付け、それをダンボール箱に投げこんだこと、するとその途端に炎があがり、のぞきこんでいた乙の頭髪が少し焦げたので乙は頭をふつてさけたその瞬間、さきに降りて来た階段の東側の男子便所の東隣にある女子便所前附近の廊下に二人の女子生徒がいるのが見えたので、急いで少年よりも先に顔をふせ加減にして逃げ出し、右階段をかけあがり、同階段でBを認め、同棟二階から前記渡り廊下を通り特別教室棟二階廊下にいたつてAと一緒になり、その特別教室棟四階にかけのぼつたこと、Bは前述の如く普通科教室棟二階から一階に通ずる階段の踊り場附近で見張りをしていたところ、乙が先になりもう一人の男子生徒も逃げてきたのを認めてすぐ逃げ出し、そのまま同棟三階までかけあがつたところで振りかえると乙がいないので、又二階迄降り、渡り廊下を通り特別教室棟二階に出て、その四階にのぼり乙・Aと一緒になつたこと、Aは前述の如く特別教室棟二階廊下の渡り廊下に通ずる附近で見張りをしていたところ、乙が渡り廊下を通り普通科教室棟の方から逃げてきたので、一緒に特別教室棟四階まで逃げたこと、AもBもその後に乙から火を付けたのはK先輩(少年)である旨聞いたこと等の事実が認められる。

(三)  少年は、原審において本件放火を否認し、当審に対して提出した上申書においてもこれを否認し、捜査段階においても多くはこれを否認しているものの、本件現住建造物等放火未遂事件で勾留請求を受けた昭和五六年一二月一九日の時点において検察官に対し、また同日の勾留質問に際し裁判官に対し、それぞれ読み聞かされた放火の被疑事実に対し

間違いない旨陳述し、更に昭和五七年一二月二五日付の司法警察員に対する供述調書においては共犯者・点火方法などを含め詳細に供述しており、その供述内容は後記のとおりであつて、前叙(一)、(二)のC・D・乙・A・Bらの供述するところと一致するとともに後記のとおり十分に措信し得るところである。

(四)  そして、一件記録中の甲の検察官に対する昭和五七年二月四日付供述調書、Jの検察官に対する供述調書及び同人作成の供述書二通、L作成の供述書、Bの検察官に対する昭和五七年一月一九日付供述調書及び同人作成の同月九日付の供述書、Aの検察官に対する昭和五七年一月一九日付供述調書及び同人作成の同月九日付供述書、乙の検察官に対する供述調書及び同人作成の同月八日付供述書、F作成の昭和五七年八月六日付供述書は、いずれも少年が本件放火の犯人でなく、犯人は乙・Aら一年生の者のみであるとするものであるが、これらは以下述べるところに照し信用できないものである。すなわち乙の検察官に対する昭和五七年一月三〇日付・同年二月五日付・同日付(謄本)各供述調書、Aの検察官に対する昭和五七年一月二一日付供述調書、Bの検察官に対する昭和五七年二月三日付供述調書、Mの検察官に対する供述調書、Nの検察官に対する供述調書、甲の検察官に対する昭和五七年二月四日付供述調書謄本によると、乙は、昭和五六年一二月一日の本件放火事件があつたのち、前記甲から、今度は前記軽音楽部室前の便所にガソリンを撒いて火をつけろ、もしやらなければお前はふくろだたきになる旨強要され、再三実行をせまられ、同月一一日には殴打されるなどしたため、翌一二日これを実行したことがあるものであるが、本件放火事件について警察で取調べを受けていた同月下旬、右甲及びJから電話を受け、どの様な供述をしたか尋ねられ、「俺がやつたことがばれていたのでK(少年)と一緒にやつたと言つてきた」旨答えたところ「K(少年)はやつていないことにしてお前も逃げろ」との旨言われ、前述の如く殴打されたことがあつたため、さからえない気持でいたところ、更に昭和五七年一月七日Jから電話を受け、翌八日JやLと会い、Jから「お前はK(少年)が留置されていることについてこのままでいいと思うのか」などと言われたため、自分が罪をかぶればK(少年)が助かるので、自分とAで火を付けたことにしようと思い、Jの運転する自動車で同人らとK(少年)の附添人弁護士事務所に行き、その様に話して同日付供述書を作成し、翌九日AやBにも口裏をあわせるように頼み、右同人らもこれを承諾し、三人の間で従前の供述は警察の調べがきびしく、ありもしないことを述べたことにしようと口裏をあわせたうえ、A・Bの両名も右弁護士事務所に赴き、同様乙とAが放火した旨を話してそれぞれ同日付供述書を作成し、同月一九日検察官に対し乙・A・Bの三人共従前の供述を変えて、K(少年)は関係がなく放火したのは乙・Aである旨の供述をしたものであること、しかし、翌二〇日、Aはその父母から右一九日の検察官に対する供述の内容をきかれて、さきに母と同席のうえ供述した内容と異なり放火したのが自分である旨供述した旨答えるとともに、それは虚偽のもので母と同席のとき述べたところが真実である旨告白したため、翌二一日父母が附添のうえ検察官のもとに赴き右一九日の供述及び一月九日付供述書の記載は虚偽であつたこと並びにその様な供述等をするにいたつた経緯をも含めあらためて本件放火事件について前記(二)の認定事実に沿う供述をし、乙は右Aから「俺は本当のことを話してきた、お前もありのまま話したらどうか、俺のことよりお前のことが心配だ」という忠告を受け、同月三〇日検察官に対し、昭和五六年一二月二三日供述したところが真実であり右一九日の供述及び一月八日付供述書の記載は虚偽であること並びにその様な供述等をするにいたった経緯を含め本件放火事件について同じく前記(二)認定事実に沿う供述をし、Bも同様昭和五七年二月三日検察官に対し同年一月一九日の供述及び一月九日付供述書の記載は虚偽であること並びにその様な供述等をするにいたつた経緯を含めあらためて本件放火事件について前記(二)認定の事実に沿う供述をしたものであることが認められるところである。所論は右A・乙・Bらが供述を変えたのは警察側の意向が強く働いているというが、一件記録を調査しても、これを窺せるものはない。

又少年にはアリバイがあるとするEの原審の昭和五七年六月一七日の審判期日における証言及び同人作成の同月一五日付供述書、F作成の昭和五七年六月一六日付供述書は後記二の(四)に照し措信し得るものではない。

(五)  以上の認定説示したところを綜合すると、本件放火は少年が乙他二名の者と共謀のうえ犯したものであることは明らかである。そして附添人が当審に提出した各供述書によつても右の認定を左右するに足りない。

二  所論は、種々論拠を挙げて原決定に事実誤認がある旨主張しているが、所論にかんがみ、一件記録及び証拠物を精査・検討しても、原決定に所論のいう事実誤認があるものとは認められない。

以下、所論につき順次検討する。

(一)  目撃者C・Dの各供述の信用性について、

所論は、C・D両名らは犯人のうち手前にいた男子生徒が少年であるというもののその目撃状況から見て犯人が「誰々」であるか迄判断できる程明確なものではない旨主張するが、しかし、所論にかかわらず、右両名の供述する内容は前叙一の(一)のとおりであり、その供述の内容は、同人らは、前述の如く普通科教室棟一階女子便所前廊下で本件放火の状況を目撃しその犯人二人の内の手前(東側)にいた者が少年であることを供述しているところであり、殊にCの供述する内容は、その顔を見たこと、その者は髪型はリーゼントにしており、三年生の教室の廊下などで校内のつつぱりグループと一緒にいるのを見たことがある顔の者で、そのはいていた靴はその頃三年生の一部で流行していた特徴を示すところの白地に二、三本の赤線が引かれその赤線の間が緑か青の様な色で塗られている体育館履のズツク靴であつたことなど、その特徴を具体的に指摘し、その行動を詳細に述べているものであり、押収にかかる少年の運動靴(体育館履・原審昭和五七年(少)二四二号の五)はまさに右の様な形状の靴であつて、また原審の審判手続の記録によると、同人らは放火の目撃状況について語ることによつてどのような仕返しがあるかも知れないことを心配していることが窺えるところであり、このような状況のもとで前述の如く一貫して少年が放火した男子生徒に間違いない旨供述しているもので、敢て虚偽の供述をするとは到底考えられないところである。そうすると、C・D両名の供述するところは、目撃者のそれとして十分措信するに足るものである。そして所論が指摘する諸点は、これを仔細に検討しても、いずれも理由がなく採用できない。すなわち、所論はDが、見た男子生徒について、それ迄校内で顔を見たこともなく名前もわからず誰だかわからなかつた旨述べていることをもつて、同人の目撃が不明瞭な状況にあるというが、右供述は、その男子生徒を見た結果それまで見たことがない生徒であつたということを供述しているものであり、同人はAと少年との区別については原審の事実取調べの際「感じは似ていましたが仕草とか顔とが違いました」と述べ、検察官に対する昭和五七年一月二〇日付供述調書においては「似ているがK(少年)ととりちがえることはない」と述べているところである。また、犯人二名が逃げる際にその顔を見たかどうかの点について、Cの司法警察員に対する昭和五六年一二月一七日付供述(所論は一二月一一日付というが誤記と認められる)と検察官に対する昭和五六年一二月二三日付供述(所論は司法警察員に対する供述というが誤記と認める)とが所論指摘のように相違するけれども、仔細に検討すると、前者の供述部分は、その前後の供述と併せて見ると、階段から二階にあがつて行くときも三年生の顔を見たが一方の男子生徒の顔を見ることができなかつたことの説明としての供述であり、後者の供述部分は「二人の顔を見ましたか」という質問に対して「はい二人とも顔を見ました、K(少年)の方は学校に備えてある生徒の写真帳を見て火を付けた犯人の一人ということがわかりました」という供述になつているもので、両供述ともCが少なくとも放火した男子生徒の顔はよく見たということ及びその男子生徒が少年である旨を述べているのであつて、Cの犯人特定についての供述の信用性を左右するものではない。また所論は写真による特定は学校側の予断と偏見によるものである旨主張するが、直接、C・Dから事情をきき犯人の特定に当つたOの司法警察員及び検察官に対する各供述調書、Pの検察官に対する昭和五七年一月二〇日付供述調書によれば、同人らはC・Dから、犯行を目撃したこと及びその犯人は二人でそのうち一人は三年生で顔をみるとわかる旨を聞き、犯人のめぼしは立つていなかつたが、そのうちの一人を特定させることとして、同人らに三年生の写真台帳を示し、誘導しては写真を見せる意味がなくなるので、Oらの方からは何も言わず、A組から順次見て貰つたところ、E組まで来たとき二人ほぼ同時に「この人だ」と一人の男子生徒の写真を指差した、それがK(少年)であつた、しかし万が一間違いがあつてはいけないと思い、最後まで見せたところ、G組まで進んだとき同人らはQという男子生徒の写真も似ているといつたが、それでもE組のK(少年)に間違いないと言つていたというのであり、この事実関係に徴すれば、Cらに、犯人を特定するについて三年生だけの写真を示し、あるいは学校側で当時一、二年生が放火するとは考えていなかつたとしても、これをもつて、C・D両名が学校側の予断と偏見によつて少年を犯人として特定したものということはできない。

(二)  共犯者の供述の信用性について、

所論は、乙がAに対し前述の様な紙片を渡し放火の計画を伝えているのに比し、少年が事前の謀議に加わつていたと認めるに足る証拠はないので少年が本件放火の犯行に及んだとすることは唐突の感を免れず、少年が加担していたとすれば見張りをしていた乙が人の来るおそれのない西側に立つていたということは不自然であるうえAの見張りに立つた場所も又不自然なところであり、Bが乙と一緒に逃走してきた者の顔を確認し得たのにもかかわらずそれについての明言をさけていること並びにA自身一度は自己が乙と共に犯行に及んだ旨を供述していることなどからすれば、少年が本件に加担していたとする乙・A・Bの供述は信用性がないという。

しかしながら、前記一の(二)に記載のとおり、原決定「非行事実」1の暴力行為等処罰ニ関スル法律違反非行後東武連合に属する者らの間では右流山中央高等学校の校舎に火を付けて学校内を更にさわがせようとの話が出ていた状況からすれば、右東武連合に加わつていた少年がこれを知つていたとしても異常とは思われず、当日の渡り廊下において少年が乙に申し向けた言辞に徴すれば、少年もこれを知つての犯行と窺えるほか、少年の司法警察員に対する昭和五六年一二月二五日付供述調書によると少年もまた学校に反抗するため校舎に放火をすることを考えていたと述べているところであつて、唐突の行動とは認め難いところである。

また少年が普通科教室棟一階軽音楽部室前廊下でダンボール箱に火を放つた際前述の如く乙は少年から見張りを命ぜられたものであるが、その位置が少年の左側(西側)であつたことは少年の司法警察員に対する昭和五六年一二月二五日付供述調書とも目撃者の各供述とも一致しているところであり又少年の東側(右側)に位置しなければ同廊下の東方が見えない状況でもなかつたもので、たまたま同人が廊下の東方を見たところ誰もいなかつたので以後少年の行動をのぞきこんでいたため目撃者の出現に気付かなかつたにすぎないものであつて、右乙が少年の左側(西側)にいたとの点から同人の前記の供述が信用できないとはいえない。そしてAが特別教室棟二階廊下の渡り廊下にかかる附近において見張りをしていたことは乙・B(原審審判期日における同人の証言の該部分が措信できないことは既に指摘したとおりである)の供述とも一致するところであり、右廊下の東端には職員室があり同方向の見張りをすることに不自然なこととは言えない。この点について所論は乙が原審における昭和五七年七月一日の審判期日において「B君はどうした」との質問に対し「階段をあがるときちらと見たけど何処かへ行つちやつた、A君がいたんで………」と述べている点を捉えて、Aが放火現場近くの階段にいた旨主張するが、乙の右供述はその前後の供述を合せると、前記一の(二)認定のとおり逃走しているときAと会つたことを述べているもので、Aと会つたのがその階段の附近であつたと供述しているものでないことが明らかである。

次に乙・Bの逃走経路・順序は前記一の(二)記載のとおりであつて、乙は前記渡り廊下を経て特別健室棟二階にいたる過程でAを認めこれと一緒になり同棟四階までのぼつたものであり、Bは普通科教室棟の一階と二階との階段踊り場附近で先になつて逃走してくる乙を目撃し、すぐにその階段を同棟三階までかけあがり、そこで乙が続いていないことを知り、同棟二階まで戻り渡り廊下を経て特別教室棟二階に行き同様四階にいたつたものであつて、Bは乙と他の一人が逃走してきたことは認識しているものの後の者についてはあまり良く見ることなく自己も逃走に移つていて、乙のあとに続く逃走者の顔を確認していないので、それが何人であるか供述し得ないことをもつてBの供述に信用性がないということはできないところであり、またBの検察官に対する昭和五七年二月三日付供述調書の中で、Bが乙と一緒に戻つて来た者がK(少年)であるかどうかわからないと述べているところを捉えて乙と一緒に戻つた者が少年ではないことを示しているという所論も独自の見解という他ない。Bは右調書において、右の供述に引き続き階段をあがつてきた者はAではなくA以外の男子生徒である旨供述しているので、Bの前述の供述をもつて犯人がAであるとする証拠になし得ないことも明らかである。また所論はBの原審における昭和五七年九月一六日の審判期日における証言を援用して、少年だとされる犯人は階下でうろうろしていたことになるというが、所論が抗告理由書一一丁裏七行目において「………」と略している部分は「逃げて来た感じだけど乙が来たので、そつちはあまり良く見なかつた」という供述部分に当ることは記録上明らかであり、所論が援用するBのこの供述から犯人なる者が廊下でうろうろしていたことになるとの断定もまた独自の見方という他ない。

Aはその作成した供述書及び検察官に対する昭和五七年一月一九日付供述調書において、本件放火は乙・Bと自己とが犯したもので少年は関係ない旨述べ、乙及びBもその作成した各供述書及び検察官に対する昭和五七年一月一九日各供述調書においてこれに添う供述をしているが、その供述にいたる経緯は前記一の(四)に説示のとおりであつて甲・J・Lの働きかけと影響力によるものであり到底措信し得るものでなく、右の経緯に徴すれば乙・A・Bは自分らが供述するところが少年並びに少年が属する東武連合のグループの者から反撥を受けることを十分に知りながら、前記一の(二)挙示の供述・証言をなしているものであること等が認められるところであり、その点から見ても、前記一の(二)に挙示した右共犯者らの供述・証言は十分信用でき、同時に本件放火の犯人は少年でなくAの可能性が高いという所論もまた採用できないところである。

(三)  少年の自白の信用性について

所論は、少年の自白は早く釈放されたいという気持から出た虚偽のものであり、不合理・不自然なものであるという。

しかしながら、一件記録によれば、少年は昭和五六年一二月一七日午後一時一〇分頃本件放火事件の被疑者(但し単独犯)として逮捕されたものであるが、当初は右被疑事実を否認していたものの、前記一の(三)記載のように勾留請求を受ける昭和五六年一二月一九日の時点において検察官に対し「送致事実はそのとおり間違いありません、先生を脅そうと思つてマツチでダンボール箱に火をつけた、私一人でやつた」旨供述し、同日の勾留質問に際しては裁判官に「被疑事実はその通り間違いありません」旨供述したこと、そして同月二三日には再び検察官の取調べに際してこれを否認したものの、更に同月二五日にいたつて司法警察員に対し、「学校の生徒に対する不当な処分に反抗しようと考え、そのため校舎に火をつけることを考え、場所はゴミ箱のあるところとして、当日、ガソリンを入れたコカコーラの一リツトル瓶を紙袋に入れて登校し、普通科教室棟二階の三年G組教室前の男子便所の掃除用具入れの隅に隠しておいた、昼休の終る頃廊下で一年生の乙を見付け、乙を呼んで『今日五時間目と六時間目の休み時間にやるから見張りを二人位呼んでおいてくれ、五時間目が終つたらこの下に来いよ』など伝えた、五時間目の授業が終つたあと早足で前述の男子便所の掃除用具入れから、前記コカコーラ瓶の入つた紙袋を右手にかかえて階段をおりて行くと中間の踊り場付近で乙が追つて来て声をかけたので、一緒に一階の軽音楽部室前の廊下に置かれているダンボール箱の前に行き、紙袋からコカコーラの瓶を取り出し、ガソリンをダンボール箱にふりかけ五時間目に國語のノートをやぶり細長くまるめて上衣の左側ポケツトに入れておいた紙を取り出し、上衣の右ポケツトから取り出した一〇〇円ライターでそれに火をつけて右側(東側)のダンボール箱に投げ捨てたら炎がたちのぼり乙の『あつ』という声がして髪の焦げる臭いがし、乙が急いで逃げ出したので私も急いで同人を追つて階段をかけのぼり(普通科教室棟の)二階の便所に入り髪毛をなおしてから廊下に出ると、二川原先生達が走つて行つたので、何くわぬ顔をしてついて行つた」旨原決定「非行事実」2の本件放火の事実をその前後の状況を含め具体的詳細に供述し、その後は又否認するにいたつたものであること等が認められるところである。そして右の自白をした理由について少年提出の上申書によれば、警察署での取調べの際、殴られたりして自白を強要された旨違法・不当な取調べを受けたためと述べ所論もその旨主張するが、少年の検察官に対する昭和五六年一二月二六日付・同五七年一月二〇日付各供述調書によれば「警察での取調べの際、脅かされたり殴られたり蹴られたりしたことも、警察に都合のいいように話せば早く出してやるといわれたこともなく、自白しないと重くなるとも言われていない。早く留置場から出られると思つたからである。それも自分で考えたことで、警察官から早く出してやると言われたためではない、まだ少年なので言えばすぐ釈放されると思つたからである、司法警察員に対する昭和五六年一二月二五日付供述は『乙やBが放火したのはKだといつているがどうか』といわれたので、乙達がしやべつているのなら仕方がないと思い『火を付けた』と述べたものである」というものであつて少年の自白はいずれも任意性に疑いをいだかせるものではなく、前記勾留質問に際してなされた供述は共犯者の有無の点はさておくとしても裁判官に対してなされたものであることに徴して信用性が高いものであり、前記司法警察員に対する昭和五六年一二月二五日付供述調書における供述は学校や両親に迷惑をかけたと反省しているとして述べているものであるほか、更に目撃者・共犯者の供述によつて認められる事実とも符合し、かつ押収にかかる国語ノート(原審昭和五七年(少)二四二号の一〇)はその一枚がやぶりとられていることに徴し信憑性は十分認められるところである。所論は、少年が勾留を受ける際、検察官に送致事実を認め、マツチで点火、しかも一人で放火したと供述しているのは事実に反し、このような自白をしたのは、早く留置場を出たかつたため、追及されるまま思いつくことを述べたものであるという。たしかに、放火のための点火用具の点は以後の少年の自白とも乙の供述とも異なり、一人での犯行というのも正確でない。しかし、右認定説示したところに照せばそのことの故に、少年の放火したという自白全体が信用できないものとは言えない。

(四)  アリバイの主張について、

所論は、本件現住建造物等放火未遂非行の犯行時間は、当日の五時間目の授業が終了した午後二時一五分頃から同二〇分頃迄の間と認められるところ、その時刻には、少年は三年F組の教室でFと雑談していたものであつて、これを証するEの供述は信憑性が高いものであるから、少年がその時間に場所を異にする前記軽音楽部室前廊下で右非行を犯すことは不可能であり、アリバイが存するという。

そこで按ずるに、所論が援用するEの供述等及びFの供述の内容は、少年が五時間目の授業終了後ほぼすぐくらいから三年F組にいつており、非常ベルが鳴つた時までこのF組にいてFと雑談していたというものであることは所論のとおりである。

ところで、少年は当時の自己の行動につき原審の昭和五七年六月一日の審判期日においては、「五時間目の授業が終つたあと三年F組のFのところに行つたか便所に行つたかよく憶えていないが、廊下でRと話をしていたら二川原先生が走つて来たのでなにかと思い、ついて一階の軽音楽部室前の廊下に行き、そこで煙を外に出すため窓を明けるなどし、そのあと三年F組の教室に行つてFやEに『本当の火事だよ』と教えた」旨あるいは「便所に行つてからF組の教室に話しに行つたかと思う、そして廊下でRと話していたら二川原先生が走つてきたのを憶えている」旨、また、昭和五八年三月二四日の審判期日においては「火災発生時にはF組でFらと話していました、警報機が鳴り廊下に出たらRと会いました、二川原先生が二階の渡り廊下を走つて来たので二人で見に行つた」旨供述している。

しかしながら、少年は検察官に対する昭和五六年一二月二三日付供述調書においては、「五時間目の授業が終つたあと便所に行き、それから三年A組のRと二階の廊下を歩いていたが、その頃、二川原先生が三年G組の生徒四、五人と一階の方にかけて行くので、何かあつたのかと思い、そのあとについて行き、階段の一階のところの鉄製シヤツターが降りていたので、男子便所の横の非常通路を通つて軽音楽部室前の廊下に行き、たちこめている煙を出すため三年F組のSと一緒に窓をあけるなどし、二、三分して三年F組の教室に行つてFに『音楽部室前で火が燃えていた』と伝えた」と、三年F組の教室に行つたのは本件放火事件の発生後である旨述べているところであつて、少年自身、本件犯行を否認する供述の中での自己の行動に関して本件火災発生時にいた場所につき矛盾した供述をしていて、右検察官に対する供述が事件に近接する時点におけるものであることに鑑みれば、少年の審判期日の供述はにわかに信用できないところであり、同時にE・Fの供述のうち、五時間目の授業終了とほぼすぐくらいの時点から少年がF組において雑談していたとする点も措信し難いものがあるうえ、Eは所論が援用しているほか、非常ベルが鳴つた直後の情況として、「少したつと特別教室棟との間の渡り廊下を二川原先生が消火器を持つて走つてきたので始めて火事だと気付いた」旨供述しているところ、同校教員二川原謙二の司法警察員に対する昭和五六年一二月二二日付供述調書で述べる行動経過、すなわち、同人は火事だとの知らせを受けて特別教室棟二階から渡り廊下を通り普通科教室棟二階に行き同棟の一階の軽音楽部室前廊下にかけつけ、その廊下の隅に置いてあつた消火器を手にして消火にあたつたというもので、消火器を持つて渡り廊下を通り、現場に向つたものではないことと食い違うことに徴しても信用性に欠けること、及び何よりも前記目撃者及び共犯者の各供述によつて認められるところと対比すると、少年が五時間目の授業が終つた直後から火災発生の時にかけて三年F組の教室にいたという所論は採用できず少年にアリバイがあるとは到底認めることはできない。

(五)  なお所論は、右のほかにも原決定の事実認定について種々論難するところであるが、一件記録並びに証拠物及び当審に提出された上申書・供述書等のすべてを精査・検討しても、原決定に影響を及ぼす重大な事実の誤認はない。

第二、手続保障の主張について、

所論は要するに、少年審判手続においても、少年側から証拠資料の信憑性を争う批判・反論の機会が保障されなければならないものであるから、少年・附添人から申請した目撃者C・D等を証人として尋問すべきであつたというものである。

しかしながら、少年保護事件の審理手続は、当事者対立構造をとるものではないので、少年・附添人からの証拠調請求権はなく、証拠も厳格な証拠法則の適用を受けるものではないので、書証についてもその供述者を直接尋問せねばならぬものとか反対尋問の機会を与えられねばならぬものではなく、少年・附添人からの批判・反論の意見をふまえて家庭裁判所が合理的裁量にもとずき、必要と認める場合、必要な範囲・限度において書証の供述者を証人として尋問するなどの証拠調べをし、その必要がないと判断した際はそれをなさなくてもなんら差し支えないところであるところ、一件記録を精査検討すると原審裁判所が附添人の意見を聴取し、乙・A・B・Eを証人として尋問し、一方C・Dについては審判官による事実取調の方式により取調べ、(証人尋問の方式によることなく審判官の事実取調の方式に従つて両名から目撃の状況・犯人の特定についての供述を求めたのは、両名の保護者から、幾度も事情を述べて来たので、このうえ本件現住建造物等放火未遂事件にかかわりあいを持ちたくないとか、少年と対面することだけはないように配慮されたいとの要請に基づき、一方では事実関係を明確にするため採つた措置であることは明らかである)その余の附添人の申出にかかる者を証人として採用しなかつた処置は当審も相当と肯定し得るところであつて、原審が非行事実の存否の審理手続に関し合理的裁量を誤り少年の手続上の権利を害し、ひいては事実を誤認した疑いはない。

第三  処分不当の論旨について、

論旨は要するに、少年が原決定の「非行事実」2の現住建造物等放火未遂非行を犯していないことを前提として、その「非行事実」1の暴力行為等処罰ニ関スル法律違反非行事実のみで少年を保護観察処分に付した原決定の処分は著しく失当であるというにある。

しかしながら、少年が原決定の「非行事実」2の現住建造物等放火未遂非行を犯したものと認め得ることは前記第一に記載のとおりであつて(論旨はそれ自体その前提を欠くものであるが)、一件記録を検討し、少年の性格・生活環境・交友関係を考慮すれば、原決定が「処遇の理由」に説示しているところは当裁判所も正当と認めるところであつて、少年の保護・更生のためには専門機関からの適切な指導・助言が必要と認められるので、少年保護観察所の保護観察に付した原決定の処遇は著しく不当ということは到底できない。

そうすると、論旨はいずれも理由がないので、少年法三三条一項・少年審判規則五五条に従い主文の通り決定する。

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